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ムガール帝国のもとパシュミナの繁栄 カシミールの歴史|カシミールを想う

ムガール帝国のもとパシュミナの繁栄 カシミールの歴史|カシミールを想う

Contents

過去と現在のカシミール|今なお続く抑圧の歴史

カシミールは過去も現在も、常に政治的に厳しい状態にありました。
ほとんどの時代、カシミールの民は多民族の支配を受けてきたのです。
それは悲しいかな、現代でもカシミールは変わりません。

カシミールの民は今もなおインド政府の抑圧により、人権を認められず自分たちのアイデンティティを保てない状態にあります。

先回のコンテンツ、カシミールの歴史 紀元後~パシュミナとの出会いまで|カシミールを想うでは、歴史上におけるカシミールとパシュミナの出会いまでを特集しました。

前述した時代はかの有名なチンギス・ハーンが生きた時代と重なります。
その時代カシミールはチンギス・ハーン以来モンゴル帝国系の諸将によって度々侵入を受けましたが、インドの諸政権はムガール帝国の成立までモンゴル帝国に連なる諸勢力による領土的な支配を許していませんでした。

このコンテンツでは、そのチンギス・ハーンの流れをくむムガール帝国の統治下にあったカシミールのカシミヤ/パシュミナの繁栄について特集してみたいと思います。

ムガール帝国の歴史

ムガール帝国とはどのような国家ですか?

ムガール帝国
ⒸWikipedia:ムガール帝国の版図の変遷

ムガール帝国は1526年から1757年頃までインド亜大陸を支配した一大帝国勢力でした。

このムガール帝国は17世紀後半から18世紀初頭にかけての勢力の絶頂期に至り、東部のベンガルから西のバロチスタンに至る大部分のインド亜大陸を支配したのです。

このムガール帝国の創始者バーブルは中央アジア出身で、ティムール朝に連なり、前述しインドが侵略を阻んでいたチンギスハーンに繋がる家系の人でした。

ですからムガール帝国は第二次ティムール朝と言えるモンゴル系の国家なのです。

これを裏付ける点はその国名にも表れています。

このムガール帝国の名の「ムガール」とは、モンゴルを意味するペルシア語の「ムグール」(モゴール; مغول Mughūl)の短縮した読みであるムグル(Mughul)が、ムガル(Mughal)に転訛したものと言われてわれています。

ですから「ムガール帝国」とは「モンゴル人の帝国」という意味の国名になるのです。

ムガール帝国とインド大陸の出会い

バーブル
ⒸWikipedia:ムガル帝国初代皇帝

1483年2月23日、ムガール帝国の創始者となるバーブルは現在のウズベキスタンで生まれ、軍事力に優れた指導者、優れた文人として評価されています。

バーブルは以前大帝国であったティムール朝に生まれましたが、ティムール朝はその当時すっかり分裂し、親族同士の争いが激化し、帝国としては衰退の一途を辿っていく運命にありました。

そのような状況のなか王位を継承したバーブルは、ティムール朝の復興を目指しましたが、その頃の中央アジアはさまざまな王朝がしのぎを削る状態にあり、バーブルの奮闘むなしく、1507年にテュルク系イスラム王朝(チンギス・ハーンの長男ジョチの第5子であるシバンの家系)のシャイバーニー・ハーンによって、残っていたティムール朝最後の政権、ヘラート政権が滅ぼされ、ティムール朝は滅亡してしまったのです。

その後バーブルはペルシア系のイスラーム王朝、サファヴィー朝の助けなどを受け中央アジアに王国の再建を目指しましたがそれも叶わず、そのサファヴィー朝もオスマン帝国に大敗北を喫したこともあり、バーブルはインド方面への遠征を行うようになったのです。

その当時北インドを支配していたアフガン系のイスラーム王朝であったローディー朝は、1517年以降その王シカンダル・ローディーの死によって混乱しており、バーブルが望む王朝の樹立には適した地域でもあったのです。

バーブルは、1522年に弱体化傾向にあったサファヴィー朝からカンダハールを奪い、その後1524年にバーブルは再び軍を率いてインドに侵攻し、ラホールを支配下に置き、1525年にはパンジャーブに進出してパンジャーブを占領下に置いたのです。

このようにしてバーブルは当時王国の空白地帯であった北インドから徐々にインド亜大陸に支配力を伸ばしていったのです。

そして、1526年4月にバーブルの軍はローディー朝の軍とデリー付近のパーニーパットで対峙しローディー朝を破り、この勝利により、インドにおけるローディー朝とデリー・スルターン朝の歴史は終わりを告げ、ティムールの流れをくむ新王朝が樹立されたのです。

そしてこの王朝はバーブルがモンゴルの血を引いていたことから、ペルシア語でモンゴルを意味するムガール帝国と呼ばれるようになったのです。

ムガール帝国とカシミール

フマーユーン
ⒸWikipedia:ムガル帝国二代目皇帝フマーユーン

1530年12月、ムガール帝国の初代皇帝バーブルは死亡し、新たに長男のフマーユーンがムガール帝国の皇帝となりましたが、ムガール帝国の皇帝フマーユーンの領土はジャウンプルからデリー、パンジャーブと北インドの限られた地域のみしか支配力が及んでいませんでした。
これはムガール帝国の皇帝フマーユーンだけにムガール帝国の支配が委ねられていた訳ではなく、その3人の親族にもムガール帝国の統治が委ねられていたからであるといわれています。

その後ムガール帝国の皇帝フマーユーンは果敢に行動いたしましたが、1540年5月17日、ローディー朝と同じアフガン系スール族の族長シェール・シャーの軍勢と戦いましたが破れ、それ以後は長く苦しい亡命生活に身を置いたのです。
これにより、ムガール帝国は一時滅亡しました。

その後皇帝フマーユーンは放浪の後イランのサファヴィー朝のもとに逃れ、その君主タフマースプ1世の支援を受け、1554年、スール朝ではイスラーム・シャーが死亡すると、その一族の間で内紛に乗じ、インドへと戻り、12月30日にはインダス川を渡り、スール朝を滅ぼし、1555年7月23日にデリーの王座を取り戻し、ここにムガール帝国は復興したのです。

その後1556年1月27日、皇帝フマーユーンは事故が原因でデリーで死亡し、息子のアクバルが新たなムガール抵抗の皇帝となったのです。
そしてこのアクバルの時代に、ムガール帝国とカシミールは繋がりを持つことになります。

カシミールの歴史家は、このムガール帝国の支配をカシミールの独立の終わりの始まりと考えています。
そしてカシミール渓谷のムガール帝国への編入をカシミールの独立と文化的アイデンティティの低下とみなしていますが、カシミールの分かという観点から考えると、大きな発展を遂げる機会ともなるのです。

アクバル
ⒸWikipedia:ムガル帝国三代目皇帝アクバル

アクバルは13歳という若さで皇帝のくらいに就いたため、インド奪還で功のあったバイラム・ハーンが摂政として統治しました。
しかしその蜜月関係は長くは続きませんでした。

1556年11月5日に第二次パーニーパットの戦いでスール朝のヒンドゥー武将ヘームーを打ち破り、奪われていたデリーとアーグラを取り戻し、徐々にアクバルの地位や統治が確立していった1560年3月に、アクバルは摂政バイラム・ハーンを追放し、アクバルはムガール帝国の真の統治者となったのです。

その後アクバルは自分の権力基盤を強化するため、多様な社会階層からの人材抜擢と自分の方針の徹底を図っていきました。
たしかにインド大陸からいうとよそ者の王国であったムガール帝国の基盤を強くするには、その方法が一番だったのでしょう。

そしてアクバルはイスラーム以外の宗教に対しても寛容であったことが知られ、アクバルの基ムガール帝国の基盤は強くなっていき、アクバルの治世、帝国の領土はさらに大きく広がり、東はベンガル、南はデカン高原まで進出して北インドのほとんど全域を平定したのです。

そして1598年、アクバル皇帝はカシミールの谷をムガール帝国に併合したといわれています。

そうです。
カシミールとムガール帝国の融合は、ムガール帝国の3代目皇帝アクバルの時代だったのです。

pashmina_embroidery
ⒸWikimedia Commons

ムガール帝国のアクバルとパシュミナ

前述したように、ムガール帝国の3代目皇帝アクバルの時代にムガール帝国は最盛期を迎えました。
それはさまざまな人種、文化、習慣や行政手段をとり入れ、インドの持つ多種多様な宗教にも寛容さを示すことによって成し遂げられたのです。

それはアクバルの時代にインドの芸術が花開いたことからも分かります。

アクバルは絵画にも積極的に興味を持ち、主に地元のヒンドゥー教の芸術家を雇ったスタジオを熱心に設立したことに表れています。
そのようにして広まったムガール絵画はすぐに、ペルシャの芸術家の洗練された技術と地元のインドの芸術家の大胆さと色の特徴を組み合わせた独特の方法で進化し始めました。

ムガール帝国の皇帝アクバルは、カシミールの一産業であったパシュミナのショールが非常に気に入り、そして庇護し、そのパシュミナ産業をさらに発展させるため、その他の文化と融合させ、パシュミナを一大産業へと昇華させていったのです。
これは現代のインドの歴史家たちの認識とも合致しています。
カシミールのショール産業がその頂点に達したのはムガール帝国のアクバル王の時代であったと考えられています。

そのパシュミナに刺繍が導入されたのはこのときであると言われており、これらのショールで使用されているモチーフには現代でもムガールの影響が見られます。
この時代、カシミールのパシュミナデザインに今でいうペイズリーが導入されました。

それだけではありません。
アクバル王は、織物の技術者に新しいモチーフを試してみることを奨励し、2つの同一のショールを背中合わせに縫い、タペストリー織りの粗い縁を隠し、両面織のショールなどのファッションを開始しました。

そしてムガール帝国の王室のショールは、貴金属と石が縫い付けられたり、金属糸の刺繍で豊かに華やかに装飾されていました。

これらのパシュミナショールは、信じられないほど柔らかく、軽く、素晴らしいデザインに細工され、織物産業というよりは一大芸術にまで昇華され、今日まで生き残っており、貴重な家宝として扱われています。

またアクバルはパシュミナのさまざまな着用方法を実験し、パシュミナを折りたたむことなく肩にかけただけで着心地が良く、デザイン性にも優れていることを発見しました。
それによってアクバル王は貴族やその他の高官への名誉ある贈り物としてパシュミナショールを贈り、インドでは現在まで続く習慣とされています。

このアクバル王のパシュミナへの愛着は、その息子皇帝ジェハンギールに伝えられていきました。
皇帝ジェハンギールと彼の配偶者であるヌルジェハンは、カシミールを愛し、カシミールを頻繁に訪れました。
そしてジェハンギルが皇帝ジェハンギールの死のベッドにおいて、皇帝ジェハンギールが望むものがあるかどうか尋ねたとき、彼は「カシミールだけ」と答えたと言われています。

その妃ヌール・ジェハン皇后もカシミールのスリナガルを愛し、パシュミナを深く愛しました。
スリナガルのパタールマスジッドは、ジェラム川の源泉であるヴェリナグの春の周りの擁壁と同様に、妃ヌール・ジェハン皇后に依頼されて作られました。
アハバルの庭も彼女によって設立されたのです。

このカシミールのパシュミナに対する愛情はその息子にも伝えられ、そのためカシミールのパシュミナは17世紀から18世紀にかけて、このムガール帝国においてカシミールのパシュミナ産業は発展し成長していったのです。

このように芸術を愛し、多民族や他の言語、宗教、習慣などを柔軟に取り入れ、その土地を愛するムガール帝国の皇帝たちに庇護されたとき、カシミールのパシュミナは、世界に羽ばたくパシュミナの一大産地となるきっかけが作られたのです。

ムガール帝国のもとパシュミナの繁栄 – まとめ –

カシミールの歴史を探るうちに、カシミールのカシミヤ/パシュミナの始まりに関する正確な情報が分かってきます。

このコンテンツでカシミールのパシュミナ。
つまりカシミール刺繍が生まれ、その中の一つのデザイン ソズニ刺繍のジャアリ(Jaali)がインドの刺繍 Chikan kari(チカン カリ)とはなんですか?!のチカンカリ刺繍のところに繋がってきました。
ご興味のある方は、ぜひお読みください。

前回のコンテンツでも書きましたが、日本の歴史とは違い、カシミールの歴史は本当に波乱万丈の歴史といえます。
いやっ。
日本の歴史が世界の歴史からいうと非常に稀なケースであって、カシミールの歴史の方が一般的なのかもしれません。

とくにカシミールはインド大陸の入り口の位置にあったためか、様ざまな王朝が興亡を繰り返しました。
そのたびに宗教も文化も変わり、様ざまな影響を受けてきたのです。

そしてこの度は中央アジアの一民族である、ムガール帝国に支配されることになります。
しかしそのムガール帝国がカシミールに今なお続く確固とした財産を残すことになるのは皮肉な結果です。

これらの状況をカシミールの今の状況と重ね合わせて考えると、とても感慨深いものがあります。

今回は、カシミールとムガール帝国までの時代を特集しました。
次回はムガール帝国の滅亡後、カシミールの苦難の歴史が始まります。

ぜひ注目してみてください。

以下にカシミールのカシミヤ/パシュミナをご紹介いたします。

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