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紀元前までのカシミールの歴史|カシミールを想う

紀元前までのカシミールの歴史|カシミールを想う

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カシミールと日本の繋がり

北インドの楽園といわれるカシミール。
古くは数千年前より王侯貴族の避暑地として使われるほど、自然が豊かで風光明媚な土地でした。

また古くからシルクロードを行き交う商人たちのインドへの入り口として重要な役割を果たした場所でもありました。

上の写真をご覧ください。
カシミールの有名な湖。ダル湖とスリナガルの写真です。

私たち住む日本からは非常に遠いように思えるこのカシミールですが、遠いようで近いのもカシミールです。
たとえば、日本の数ある桜の原種の一つにカシミールや中国雲南省に分布しているヒマラヤザクラやヒマラヤヒザクラがあると考えられています。
またカシミールは日本と同じ稲作を行っています。
他にも有名なカシミールのカシミヤ/パシュミナを作る手織り器具などの形状は、日本の手織り器具にそっくりです。
先日茨城の結城紬の織物工房を訪ねたときに、そこの工房を案内してくれた方は結城紬は大陸から伝わって来たと言われていると仰っていました。

このようにわたしたち日本と遠い北インドにあるカシミールは遠いようで近い国なのです。

そんなカシミールをわたくしは大好きですが、そのカシミールの歴史についてまとめて、カシミールについて少しでも知っていきたいと思っています。

最も古いカシミールの歴史

 burzahom
ⒸLOST KASHMIRI HISTORY

カシミールで発見された人間の居留地と思われる、最も古い遺跡は、カシミールのスリナガルの近くのBurzahomと呼ばれる場所にあります。

それは新石器時代の遺跡であり、紀元前8000年から紀元前1000年頃の時代のものと思われています。

このBurzahomの遺跡は1935年にカシミールにて発見され、現在ユネスコの世界遺産登録ウォッチリストに登録されており、将来世界遺産に登録される可能性があります。

このカシミールのBurzahomを発掘をした考古学者は、Burzahomの周辺や地下住居や埋葬地から興味深いものを見つけました。

まずはこのBurzahomの遺跡から石に描かれた狩猟の風景画が発見されています。
そしてその石には2人のハンターと鹿が描かれており、そのハンターと共に犬が描かれているのです。
そしてまた興味深いことに、この風景画のシーンには2つの太陽が描かれています。
科学者によると、これは古代に記録された超新星の最初の例です。

またなぜ石に描かれているのが犬と分かったかというと、犬がカシミールのBurzahomの遺跡内の住居の敷地内で主人のすぐ隣に埋葬されているとことが多くみられたからです。

そしてさらに興味深いことに、この犬を埋葬するという文化は、モンゴルと国境を接するシベリアのアムール川への支流であるシルカ川周辺のシルカ文化やその周辺から出土された葬儀の慣行と道具の種類、そしてモンゴルと同様にシベリアと国境を接する北中国の新石器時代の文化に見られるものとよく似ていると推測されています。

そしてこの犬を埋葬するというこの慣習はインドのどこにも見られません。
これもまた、カシミールが中央アジアがインド亜大陸と出会った場所、カシミールがインドの入り口であったことを示唆しています。

西暦前の歴史上のカシミール

kashmir

その後に歴史にカシミールが登場するのが、西暦前10世紀ころのことになります。

古代インドは、前1500年頃に西北から移動したアーリヤ人がこのインドの地を征服しながら先住民と交わり、さらに前1000年以降にはガンジス川流域に広がっていったと言われています。
そのアーリヤ人は鉄器を使用しながら牛を飼育する牧畜を行い、自然を崇拝する讃歌リグ=ヴェーダに代表されるヴェーダを作り上げていきました。
この西暦前1500年から前500年ごろまでの時期をヴェーダ時代といい、西暦前1500年から1000年を前期ヴェーダ時代。
1000年から西暦前500年ごろまでを後期ヴェーダ時代と呼んでいます。
これは有名なアレキサンドリア大王がインドに侵入する前のことです。

この後期ヴェーダ時代、つまり紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃にかけて古代インド(ここでいうインドは主に北インドを指す)には、十六大国(じゅうろくたいこく、Solasa Mahajanapada)と呼ばれる相互に争っていた諸国があったことが、仏典やジャイナ教の聖典によって記録されています。

そして、その16大国の中の一つ、ガンダーラ王国がカシミール地方やタクシラの周辺に勢力を持ち、紀元前6世紀後半にはアケメネス朝ペルシアの支配下に入っていたという記録が残っています。
聖書にも出てくるダレイオス1世の碑文には、アケメネス朝ペルシャがそのガンダーラ王国を支配下においていたことが書かれています。

しかしある記録ではカシミールはクシャトリヤ(王侯貴族・武士階層)のカンボージャが支配していたとの記述が『マハーバーラタ』に見られます。
このバラタ族はインド・アーリア人の部族のひとつであり、現代に至るまで、『マハーバーラタ』などを通じてインドの歴史に大きな影響を与え続けた人々です。
このカンボージャ国は文献や碑文に表される時には常にガンダーラと併置されています。
そのためガンダーラとカンボージャの間に深い関係があったと推測されているため、このような記録が見られるのだと思われます。

これと同時期の西暦前5世紀にカシミールを指すとみられる地名が、ミトレスのヘカタイオスやヘロドトスの著述にあらわれています。

このインドの十六大国の中からインドを統一する国があらわれます。
それはマガダ王国です。
このマガダ王国は十六大国の周辺の大小の国々を次々と征服、そして従属させていき紀元前4世紀に成立したナンダ朝、そしてその後を受けたマウリヤ朝のアショーカ王(阿育王)の時代にはインド亜大陸のほぼ全域を支配するまでになったといわれています。

そしてそのマウリヤ朝のアショーカ王(阿育王)がカシミールを支配し、スリナガルを建設し、そのスリナガルには仏教の高名な僧院が開かれ、鳩摩羅什(くまらじゅう)などがその僧院で学んだと言われています。

アショーカ王とカシミール

Ashoka
©Wikipedia

アショーカ王とは、インドの最初の統一王朝であるマウリヤ朝第3代の王です。
アショーカ王は、紀元前268年に即位し、前232年頃まで在位と言われています。
そして中国では阿育王として知られています。

とくにアショーカ王は、マウリヤ朝全盛期の王で仏教の保護者としても知られています。
アショーカ王は、インドの一部の地域の支配国であったマガダ国の支配領域をガンジス川流域・インダス川流域からデカン高原まで及ぼし、現在のインド(南端はのぞく)とカシミール、パキスタン、バングラディシュのほぼ全域を支配しました。

アショーカ王は仏教を篤く信仰して保護し、仏法(ダルマ)にもとづく統治を行ったことで有名です。
アショーカ王は非常に優れた王であったと言われているため、その没後マウリヤ朝は衰退へと向かい、前180年頃には滅亡し、インドは再び分裂状態となったのです。

アショーカ王は、前述したように、カシミールの都スリナガルを建設し、篤く仏教を保護し、カシミールはすでに仏教の栄える地域であったと思われます。
ちなみにカシミールの夏の首都スリナガルとは吉祥天の都という意味があります。

日本でも有名な西遊記の三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵は、カシミールを経由し、ブッダゆかりの地を訪れた後に、有名なナーランダー僧院(現在のビハール州)へと赴いています。
玄奘三蔵は記録によると、当時仏教国であったカシミールでも国王に迎えられ、歓待されたことが分かっています。

また玄奘と共に二大訳聖と言われた鳩摩羅什(くまらじゅう)は、インドの名門貴族出身で9歳のときに、母親と北インドのカシミールへ留学し、当時小乗仏教の中心地であったカシミールで仏教を学んだという記録が残っています。

いずれにしても、現在はイスラム教の人々が多いカシミールですが、当時は仏教国であり、しかもその中心地であったことが分かっています。

その名残は今でもあり、カシミールの「バンディット」と呼ばれるカシミール人の仏教の人たちはインドの中でも知識層であるといわれています。

カシミールを想う まとめ

今ではカシミールというと未開の地というイメージを持つ人がいますが、歴史の中でカシミールは古代より重要な役目を果たしてきました。
とくにインド大陸の入り口に位置していたカシミールは、文化交流が盛んな地であり、多くの知識層やさまざまな文化が交錯した地でもあったのです。

このカシミールは紀元後、さまざまな変化に襲われていき、徐々に現代のカシミールに近い形になっていきます。
ぜひカシミールを想うの続編もご覧くださいませ

以下にカシミールの特産品であるカシミヤ/パシュミナをご紹介いたします。

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