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ドゥッラーニー朝のもとカシミールの苦しみと発展の始まり
ムガール帝国の時代、カシミールは色々とあったとはいえ全体的に見れば発展し、特にカシミールの特産品であるパシュミナの技術、デザインなども体系化したこともあり、良い時代であったといえます。
しかしそのムガール帝国が徐々に衰退の兆しが出てきた後、カシミールの苦しみが始まってきたのです。
それはそれまでイランに支配されていたアフガニスタンで、アフガン人が初めて自立して建設したアフガン王国の最初の王朝ドゥッラーニー朝の出現によりカシミールの苦しみは始まりました。
ドゥッラーニー朝によるカシミールの支配
そのドゥッラーニー朝の創始者アフマド=シャーは、1747年カンダハールを都として王朝を設立し、パシュトゥーン語で「真珠の時代」という意味のドゥッラーニー朝と名乗ったのです。
しかしアフマド=シャーが統治するまでのアフガニスタンは多民族国家ということもあり混乱していました。
その中のドゥッラーニーという名称はアフマド=シャーが属した部族連合の名前でしたので、この争いが絶えなかったアフガニスタンの地にあってこのドゥッラーニー朝は、優れたアフマド=シャーのカリスマ性により一つに纏まったのです。
現在でもアフガニスタンの建国はこの1747年とされています。
ちなみに今でも使われているアフガニスタンという言葉は、ペルシア語で「アフガン達の土地」という意味になります。
また「アフガン」とは、ペルシア語でパシュトゥーン人のことを指します。
アフガンとはただの短縮語だと思っていたのですが、意味があったことが勉強になりました。
話題はドゥッラーニー朝に戻りますが、その後ドゥッラーニー朝は勢力を伸ばしていき、1751年、そのアフマド=シャーに支配されたドゥッラーニー朝は、カシミールをその勢力下に置いたのです。
このアフガニスタン人で構成されたドゥッラーニー朝は、特にカシミールのヒンズー教徒に、残酷でした。
しかし、カシミールの歴史家は、ドゥッラーニー朝は宗教に関係なく、すべてのカシミール人に対して残酷に抑圧的だったと述べています。
例えばドゥッラーニー朝のアフガニスタン人は地元の人々から金を強要しました。もしそれにこたえられない場合、容赦ない死が待っていたのです。
ですからカシミール人の男女は自分たちの生命の危険を感じながらドゥッラーニー朝を恐れて生きていたのです。
またドゥッラーニー朝のアフガニスタン人は多くのカシミール人を奴隷としてアフガニスタンに送るということさえしたのです。
まさにドゥッラーニー朝による支配は、カシミールにとって苦しみの始まりだったのです。
そのドゥッラーニー朝も前述したように部族連合だったため、創始者であるアフマド=シャーが1772年10月23日に亡くなり、カンダハールの墓に埋葬された後、この王国は内紛などで弱体化していきました。
そしてこの王朝の8代目アユブ・シャー・デュラニの時代の1818年から188年にかけて、パンジャーブ州、カシミール地方、シンドなどのドゥラニ帝国の主要な収入源は、シーク教徒に、バルチスタンは地元の独立したカーンに失われました。
ドゥッラーニー朝支配下のカシミールのパシュミナ産業
またこのドゥッラーニー朝の支配の間、カシミールのパシュミナ産業はドゥッラーニー朝による重い税金のために衰退していきました。
学者によると、これらドゥッラーニー朝のさまざまな残虐行為により、多くのカシミールのパシュミナ職人たちがパンジャーブ州に逃げたという記録が残っています。
ですから現在でもインドの北部パンジャーブ州は織物が盛んな土地として知られています。
これまである学者たちは、このドゥッラーニー朝の間にもカシミールのパシュミナは進化し続けたと言われていましたが、最近の研究ではそうじゃなく、これまでのような王室の庇護のもとの新たな技術革新も進歩はなかったと言われています。
それはムガール帝国やこれまでのシャー王国のように、カシミールのパシュミナを愛する王がおらず、王室の庇護がなかったためと言われています。
しかしその時代、王や王朝の支援なしにパシュミナはカシミールの人々の手によって進化し続けました。
まさにカシミール人々の逞しさを表しています。
例えばムーンショールと呼ばれる正方形のショールの中央部分に満月を表す円模様をデザインし、その四隅に扇形の模様をデザインするショールがあらわれたと言われています。
これはチャンダールとも呼ばれ、肩掛けとしても使用されたと言われています。
さらにこのヨーロッパへのパシュミナ/カシミヤ ショールは、ムガール帝国の時代から輸出されていましたが、カシミールを支配する王国が変わってもその輸出は盛んに行われていました。
そのため1説によるとドゥッラーニー朝の支配下の1803年に初めて手刺繍を施したショールが現れたと言われています。
これはその当時ヨーロッパへのパシュミナ/カシミヤ ショールの輸出は織物としてのパシュミナ/カシミヤ ショールがメインでした。
そのショールを現在の名前ではカニ織と呼ばれています。
しかしパシュミナ/カシミヤ ショール(カニ織)は完成まで非常に時間がかかるため、注文してもパシュミナ/カシミヤ ショール(カニ織)の納品までに非常に多くの時間がかかり、需要と供給のバランスが著しく崩れていたのです。
そのため時間の短縮とコスト削減のため無地のパシュミナ/カシミヤ ショールにそれまであった手刺繍の技術を施したパシュミナ/カシミヤ ショールがトルコの貿易会社を代表するアルメニア人、クワジャ・ユスフによって考え出されたと言われています。
このカシミールの職人たちの努力と工夫によってコストは1/3になったと言われており、さらにヨーロッパ社交界の必要を満たすことにもなったのです。
恐らくそれまでにもムガール帝国の庇護のもとパシュミナ/カシミヤ ショールの手刺繍商品もあったはずなので、パシュミナ/カシミヤ ショールの制作の比重が織物から手刺繍のパシュミナ/カシミヤ ショールになっていったというのが現実的なところのような気がします。
シク王国の支配下のカシミール
1819年、カシミールはドゥッラーニー朝の支配下から、シク王国の若き指導者ランジート・シングのシク帝国の支配下に入り、そのカシミールに対するシク王国の支配は1846年まで27年間続づきました。
支配の最初のころ、アフガニスタンの支配に苦しんでいたカシミール人はシク王国の支配を歓迎しました。
しかしカシミールの人たちの期待通りには運びませんでした。
シク教徒のカシミールの支配の間、ほとんど非識字のイスラム教徒は、重い課税、地方の負債と差別の下で苦しみました。
シク教徒は知識層が多かったので非識字層を虐げのでしょう。
※シク教徒については下記シク教徒とはをご覧ください。
シク教徒は多くの反イスラム教政策を制定していたため、イスラム教徒の過半数を占めるカシミールの住民は、宗教の実践において多くの困難にさらされたのです。
例えば中央のモスク、ジャママスジッドは20年間閉鎖され、イスラム教徒はアザンを発行することを禁じられました(祈りの呼びかけ)。
またシク教徒がヒンズー教徒を殺害した場合、許容される補償額は4ルピーでした。
しかしシク教徒がイスラム教徒を殺害した場合、許容される補償額はわずか2ルピーだったのです。
このようなシク教の規則の効果は、カシミールの人々が「ズルムパラスト」(専制政治を崇拝する者)として知られるようになり、カシミールは軍事文化を失い、柔和になり従順になっていったということでした。
このシク教の支配の間、ヨーロッパの旅行者たちはカシミールを訪れ、カシミールの農民の極度の貧困とカシミールに課せられた法外な税金についても書きました。
またカシミールの中の耕作可能な土地の16分の1以下だけが耕作中であり、そのため飢餓のために多くの人々がインドの他の地域に逃げていました。
そのため彼らは、農民が貧困に巻き込まれ、多くのカシミールの村人がパンジャーブ平原に移住するようになったと述べています。
その後シク王国は、1839年に創始者であるランジット=シングが死んだ後、その王位継承を巡って内紛が生じていました。
その間隙を突いたのがイギリスです。
その当時植民地支配をインド全土に拡大しつつイギリスは、1845~1846年に起きた第一次シク戦争でイギリスは勝利しました。
そしてその賠償としてシク王国は、賠償金の支払いとカシミールの放棄をイギリスに約束し、1846年、カシミールはイギリスの宗主権下にあるヒンドゥー教の教徒グラーブ=シングを藩王とする藩王国の支配下に入りました。
シク王国は、二度のイギリスとの戦争によって弱体化し、1849年にパンジャーブのシク教徒の反乱が鎮圧されて終結したのです。
イギリスはインド併合を虎視眈々と狙っており、その当時インドに残る独立国家であるシク王国を倒す機会をねらっていましたが、王国の創始者であるランジート・シングの死後の内紛をとらえて挑発し、シク王国を滅ぼしたのです。
シク教とは
ちなみにこのシク王国の宗教はシク教ですが、このシク教は世界で5番目に信者の多い宗教と言われています。
そして富裕層が多く社会的に活躍する人が多い宗教です。
特徴としてターバン着用が戒律上の義務となっており、日本で有名な人ではプロレスラーのタイガージェットシンや昔ボンカレーのパッケージにターバンをしたインド人が載せられていたため、インド人=ターバンをしていると思っている方は少なからずいると思います。
しかしそれはシク教の教徒のようです。
シク教徒はインド全域に分布しているが、特に総本山ハリマンディルの所在地であるパンジャーブ州にシク教徒は多いと言われています。
前述しましたが、シク教成立時よりその教徒は裕福で教養があり教育水準の高い教徒が多かったことから、イギリス統治時代のインドでは官吏や軍人としてシク教徒が登用されるなど社会的に活躍する人材を多く輩出しました。そのため職務等で海外に渡航したインド人もシク教徒が多く、ターバンを巻いたインド人を多く見かけることがあったのです。
それも含めターバンの着用はインド人の習俗であるとの世界的なイメージにつながったと言われています。
1833年のカシミールの飢饉
1833年の飢饉により、多くの人々がカシミール渓谷を去り、パンジャーブ州に移住しました。
その時ほとんどの織工がカシミールを去りました。
ジャンムーやヌールプールなど、何世代もカシミールで続いている織工がパンジャーブ州の都市に入りました。
1833年の飢饉の間にカシミールでは数千人が死亡し、飢饉と移住の両方により人口が4分の1に減少したと言われています。
この飢餓により、イスラム教徒はヒンズー教徒よりも影響を受け、多数のイスラム教徒が移住しました。
シク王国の元のカシミールのパシュミナ
この頃のカシミールのパシュミナは、変わらずヨーロッパへの輸出は続けられていましたが、記録に残るような技術的な変化などはありませんでした。
しかしカシミールが苦難だったこの頃、イランにてショール産業が盛んになっており、カシミールのショール産業と競合していたという記録はあります。
しかしその記録によるとイラン製に比べカシミール製のショールの人気は高く、当時のイラン政府はカシミール製のショールの輸入規制をしなければならなかったほどであったと記録には残っています。
やはりカシミール製のショールであるパシュミナは世界に誇る織物だったのです。
アフガン・シク王朝のもとカシミールの苦しみと発展 まとめ
このコンテンツは、カシミールにどのように様ざまな王朝が関係してきたかという観点で論じておりますので、
実はカシミールがアフガニスタンの王朝に支配している間などでもムガール帝国などは存続していました。
その辺はお間違えのないようお願いいたします。
カシミールにとってムガール帝国がカシミールを支配している間は栄えていました。
それはその帝国の支配者がカシミールという土地を愛し、インド全体に対し寛容な政策をとったからです。
たしかにそのような政策はインドの宗教・人口構成などを考えると最も現実的で、実際的な政策だったと思われます。
同じように寛容の精神を打ち出していたガンジーの時代にインドが独立したというのも偶然ではないかと思います。
しかしこの後もカシミールには苦難のときが続きます。
次は、実質上イギリス統治下のカシミールの歴史とその中のパシュミナを考察していきます。
もしお時間があったらお読みいただければ幸いです。
カシミールに連綿と続くカシミールの特産物、パシュミナを紹介いたします。